陶芸家・加藤亮太郎 作陶20年―来し方、行く末

陶芸家
作陶20周年を迎えた陶芸家・加藤亮太郎。
しぶや黒田陶苑にて開催された個展「作陶二十周年記念 加藤亮太郎展」(2019年11月15日~19日)に伺い、
これまでの経歴を振り返りながら、現在、そしてこれからの活動について話を聞いた。
写真:石上洋・柳沼桃子
取材・構成・文 高橋明子

PROFILE

加藤亮太郎

1974年、200年以上続く幸兵衛窯の7代目・加藤幸兵衛の長男として生まれる。1999年京都市立芸術大学大学院陶磁器専攻修了。2000年より幸兵衛窯に入る。2015年幸兵衛窯8代目を継承。伝統的な美濃の焼き物からオブジェまで、幅広い作風を展開する陶芸家。

下積み時代の葛藤

――加藤さんは、代々続く美濃焼(※1)の家系のご長男としてお生まれになり、現在も伝統と向き合いながら陶芸家としても正統派の道を進んでいらっしゃる印象ですが、ご自身としては現在のご職業や方向性というのは、いつごろ決意されたのですか?

加藤 私は高校生くらいの頃は、現代アートをやりたかったんですよ。けれどいろいろあって、結局大学も陶芸を専攻するのですが、作品はオブジェでした。その当時は、現代アートこそ「作品だ!」と考えていましたし、器というものには興味がなかったんですね。身近過ぎたのだと思いますし、若さもあって、良さがわからなかったということだと思います。

だから、今の私の作品を見た学生時代の友人たちは「いったい何があったんだ?」って驚きますよ(笑)。

当時、すでに個展も開催していたのですが、卒業後は美濃に戻って家業を継ぐことになりまして、そこからの下積みの5年間って、これから自分がどんな立ち位置でいくのかとか、何をやっていくのかということを考える時間だったと思うんです。つまりその時はまだ決意ができていなかった。

――京都から美濃に戻って作陶を続ける中で変化があったということですね。

加藤 そうですね。京都の大学に進学したのはよかったと思っています。いったん離れたからこそ、ふるさとである美濃のことを客観的に見られるようになって、その魅力に気が付いたというか。下積みの5年の中で、美濃というものを肌で感じるようになり、やはり焼き物をやるならば茶碗を作りたいという心境になりました。

そして丁度そのころ、祖父(※2)が亡くなったのです。 こうなるともう、自分が表立ってやっていかなくてはという覚悟が芽生えてきましたし、そこで改めて、桃山陶(※3)というものに、正面から向き合っていきたいという心境へと変化したのです。けれど、この道にはもう、人間国宝などの偉大な先人たちがいますし、当時は既にやりつくされているんじゃないのかと考えていましたから、そこに立ち向かっていくことはとても勇気のいることでした。この期間は、プレッシャーを感じながら作陶を続けていた時期でもありますね。

茶碗の魅力、面白さを実感していく

――そのような中でも、作陶を続けていくうちに、茶碗というものの魅力や味わいをご自身でもより感じるようになったのではないでしょうか。

加藤 そうですね。こういう世界って、実際に作品を手に取って、釉薬や土の質感やいろんな造形を慈しむようにじっくり楽しむものなので、ぱっと見ただけではわからないところがあるんです。若い頃は、そのあたりのことが自分自身でもピンと来ていなかったのですが、たくさんの名品に出会ったり、自身でも作品を作り続けていくうちに見えてきたものがあります。

――たしかに、実際茶碗って、パッと見てすぐに面白さを感じられるものではないかもしれません。加藤さんは普段、どんなふうに鑑賞されているのでしょうか。

加藤亮太郎《鼠志野茶盌》

加藤 私は、茶碗にはランドスケープが表れていると感じます。

たとえば志野(※4)は、長石という石と鉄と土という、自然の素材からできているのですが、考えてみると、地球も熱と圧力でできているから、大きな焼き物みたいなものですよね。

だから地球の素材と火を使ってつくる焼き物には、自然の美しい景色だとか、見る人によっていろんな景観が見て取れると思うんです。逆に言うと、そういうものを感じ取って楽しめるものが茶碗なのです。

――ご自身でもお茶碗の魅力を感じるようになり、経験も積む中で心境の変化があったのですね。ほかに転機となった出来事はありましたか?

加藤 だいたい10年前くらいからですが、19歳から続けてきたお茶が楽しくなってきて、作品にもいい影響が表れてきました。やはり10年たつと、自分の血となり肉となるというように、緊張もしなくなるし、楽しくなってくるというか、要するに日常の自分の中に入ってくるということなんですね。

今回の個展の図録に寄稿いただいた武者小路千家の千宗屋若宗匠と初めてお目にかかったのもこのタイミングでした。以来、たくさんの学びをいただいています。

――茶碗を制作されている加藤さんにとって、お茶を続けられることにはどんな意味がありますか?

加藤 お茶というのは、私にとっては「美」と出会う場所でもあり、「人」と繋がる場所でもある、いわば刺激を受ける機会なのです。醍醐味は、なんといっても古くから残るよいお茶碗に出会って、手に取って、口をつけて飲むという体験ができること。本当はそんなことありえないわけですよね、展覧会や図録を通して眺めるというのが精いっぱいとのころ。ですが実際に触れてみると、感じることが100倍くらい違う。こういう経験を積み重ねることが、自分にとって作家としての力量を上げることにつながると考えています。

後世に残る作品を生み出したい

――いろいろな葛藤を経験しつつも作陶を続けられ、その中でだんだんとご自身の道がさだまってきたということですね。現在の加藤さんはそういった迷いの部分は落ち着いて、今はまっすぐひとつの方向を見据えて制作されているという印象です。陶芸家として、現在加藤さんが目指されているのはどんなことでしょうか。

加藤 やはりこの道にいる以上、本物をつくりたいという思いがあります。まっとうに美濃の伝統的な焼き物に向かい合いながらも、今を生きる人間として、現代性を盛り込んだ作品を作っていくこと。それが、自身の生きた痕跡を残すことであり、後世に残る作品を生み出すということだと考えます。

そのためには、作品の「表現」を追求していくことと、「中身」をつくっていくことの双方が必要ですね。

――「表現」の追求というと、加藤さんは、6年ほど前から穴窯を中心にした焼成をされるようになったと伺いました。作品に表れる効果はいかがですか?

加藤 出来上がってくるものの味わいが明らかに違いますね。志野でいうと、5日かけて焼くわけですけれども、釉薬の表情、質感、土の焼け具合が雲泥の差です。その間ずっとかかりきりになるので、人も労力も気力も使い果たすような作業なのですが、一度出来上がった作品を見たら、もう戻れなくなるんですよ。

焼き物というものの美しさは、半分は人間、半分は自然の力が作るもの。そこがほかの工芸・美術と違うのですよね。だから、焼きを追求することは重要なのです。

――それでは「中身」をつくるために、加藤さんが意識されていることはどんなことでしょうか?

加藤 作風って、私の人間性を含めた全部がでてしまうのです。だからこそ、お茶を続けることもそうですけれど、様々な名品に触れたり、人間的にも経験を積み重ねていく必要性を感じています。日々のすべてが修業ですね。

――ご自身の生活とお仕事とが繋がっていらっしゃいますね。最後に、今後、目標としていることはなんでしょうか。

加藤 茶碗って不思議なもので、400年500年も前のものが今でもお茶会になると出てくるんです。国宝とか、重要文化財とかもそうですが、要するに時代を超えて生き抜いていくものがある。だれかがよいと思ったお茶碗を、その人が人生の中で愛玩し、ときに銘をつけたりして、自らのパートナーのように慈しんでいく。また次の人の手に渡ったとき、その人もまたよいと思ったらずっと残っていくわけですよね。名品はそれが繰り返されてきたのですから、つまりは美意識が繋がっているということだと思います。

言い換えれば、その作品が「美」という永続性をもっているということ。やはり名品に出会うと感動しますし、私も一生のうち1点でもいいから後世に残る作品を生み出したい、そういう思いでやっています。(了)

加藤亮太郎氏のアーティストページはこちら

この記事でご紹介した作品

WORDS

※1 美濃焼

起源は須恵器であるといわれ、平安時代から室町時代にかけてはさまざまな焼き物が生み出された。桃山時代には茶の湯の流行に伴って特に発展し、瀬戸黒(引出黒)、黄瀬戸、志野、織部といった釉薬を使った色彩豊かで斬新な焼き物が生まれた。

 

※2 祖父 加藤卓男(1917年~2005年)。 幸兵衛窯6代目。古代ペルシア陶器を研究し、名陶ラスター彩の再現に成功した功績などで知られる。美濃焼と異文化を融合させた、色彩豊かでエキゾチックな作品を生み出した。1988年紫綬褒章、1995年人間国宝認定。著書に『やきもののシルクロード』(中日新聞社)、『ラスター彩遊記・砂漠が誘う』(日本経済新聞社、)など。

 

※3 桃山陶 桃山時代(16世紀後期)頃に出現した瀬戸黒(引出黒)、黄瀬戸、志野、織部などの焼き物を指す。   (※4)志野 志野は、桃山時代(16世紀後期)に美濃で焼かれた白い釉肌に赤い火色が表れたやきもの。紅志野、鼠志野、練上志野など色彩にいくつかのバリエーションがある。