松林豊斎 茶陶の新たな地平を拓く|朝日焼十六世松林豊斎の解釈と表現(後編)

陶芸家
茶陶にこだわりながらも、その一方で、フィールドを超えて多彩な世界と自在に交感する朝日焼十六世松林豊斎。
朝日焼の姿勢ともいえる新たな表現への挑戦を自らに課し、自身の使命を考え抜いたその先で体得されたのは、
茶陶の名家、朝日焼の「綺麗寂び」を、この時代のかたちとして表現すること。
透徹した思想と作陶の姿勢が、作品の優美で清朗、抑制的な美しさへと転換されていく。
文・構成・聞き手:ふるみれい
写真:柳沼桃子・ふるみれい

PROFILE

松林豊斎

1980年 朝日焼十五世松林豊斎の長男として生まれる。2003年 同志社大学法学部を卒業後、日本通運(株)に就職。2004年の退職後、京都府立陶工訓練校にてロクロを学ぶ。その後、父豊斎のもとで修行。英国セントアイブスのリーチ窯での作陶などを経て、2016年、十六世豊斎を襲名。GOONなど様々な活動にも積極的に参加している。

新しい継承の形への模索

-朝日焼十六世ということですが、代々受け継いできたものや、継承という営みについてどんなことをお考えになりますか。

松林  友人の桶づくりをされている方とよく話すのですが、我々の父親以前の世代には、桶は本当に身近で日常のいろいろなところに使われていましたが、今ではもう特別なものになっています。今までの桶という概念にとらわれず桶の技術を残すために様々な取り組みをされています。ですが日常の中で誰もが使っていた時代とは圧倒的に製造量が違いますから、修業という意味では、成長スピードはかつてに比べればやはり遅くなってしまいます。

昔だと14、5歳から叩き込まれたような世界が、今だと大卒からになったりする。そうすると実質働く時間も短くなりますし、修行のために夜遅くまで働くといったことも、今の社会ではなかなか難しい。そのなかで、今までやってきた技術、あるいはその技術の奥底にある思想といったものを継承していくためには、継承の形を変えていかなければならないのではないか。簡単な解決はないですが、今まで「見て覚えろ。」だけだったものを言語化してみる。その中で言語では伝わらないものは別の方法を考える。現代にあった継承の在り方をつくり手仲間や、そうしたことに関心のある外部の方と共同でずっと考えたりしています。

振る舞いの継承

-今の時代ならではの継承の難しさがあるんですね。代々続いている環境のなかで育ってきた方の継承は、技の部分だけではない、決定的な要素があるのではないかと思うのですが、何かお感じになることはありますか。

松林  まさにその部分なのですが、朝日焼に通底しているものは何かということを、代を継ぐ前にも増して、真剣に考えるようになりました。代々同じことをしているようで、実は各代で新しいチャレンジをしたり、かなり違いがあるんです。そんななかで、ある友人に言われたんです。わたしには極めて自然なことなんですが、窯を焚く前にみんな揃ってお祈りをするんですね。お祈りするときにあげたその燈明の、ロウソクの火をいただいて、窯のなかに火を入れるんです。友人は、そういうことがやはり朝日焼のなかで大事なんだろうね、とわたしにふと言ったんですね。それを聞いて、あっ、そうだなって、とても腑に落ちたんです。何に祈っているかも実はよくわからない、もちろん窯の成功と、火を使いますから無事を祈りますが、動作として、火を灯してお祈りをして、柏手を打ってという、一連の動きをみんな揃ってやるだけ。でも、丁寧につくれとか、そういうことをいくら言葉で言うよりも、むしろこうしたことを繰り返すことが、朝日焼のものづくりを体得していく上で、非常に大きなことだと感じます。

歴代の当主、陶人たちと同じ所作で窯焚きの無事を祈る

よく父が言っていました。我々は自分の個性を器で表現するんじゃないんだ、そもそも土というものは美しくなる要素を持っていて、それをいかに引き出して行くかが自分たちの仕事なんだ。もちろん、つくり手の個性がそこに加わっていくのは当然なのですけれども、それが目的なのではなく、その本来美しいはずの土をいかに美しく焼き上げるか、そこが自分たちの仕事なんだ、ということですよね。そういうものを一番植え付けてくれるのが、こういった祈りのように、動作であったり習慣だったりするんだと思います。

わたしはこの家で育って、大晦日の夜からお正月の三ヶ日、朝晩朝晩、合計7回、必ずそれぞれの窯と仕事場にロウソクを灯して柏手を打ってお祈りをするということをずっとやってきました。朝はお雑煮を神棚に供えると同時に、お仏壇と仕事場、窯に供えて行くんですけど、私が物心ついた頃から、なぜか父は子どもだけで行かせるんですよ。最初はもちろん一緒に行ってくれるんですけど、だんだん自分は行かずに、子どもだけで行かせるんです。子どもにとっては楽しくもなんともないですし、今よりずっと寒かったですから、朝起きて行かなければいけないのは、嫌で仕方なかったんですね。でも、それをしないとお雑煮を食べさせてもらえないので行くわけです。それをずっと30数年続けていると、もうそれをしないと気が済まない、そういう心持ちになってくるんですよね。多分そういうことが、「継承」ということなんだろうなと思うんです。継承には言葉もあるし、動作も伴う。そのような積み重ねが沈着していくような何かがある。伝統工芸とか伝統芸能といった枠を取り払っても、家のなか、地域のなかで継承されているものというのは、そういう体験、体感の積み重ねなんじゃないでしょうか。

通底する精神を体得する

-歴代の人々と同じような環境との接し方で、この宇治という風土をご自身も生きてこられた。そうした場所性や体験性というものも、知識としての技の伝授に加えて大事なのでしょうね。

松林  正直そうだと思います。陶芸についていえば、技は、もう秘伝とか秘技といったものがほぼ存在不可能と言っていいくらい、一般化した世界なんですよね。昔であれば、ある程度囲い込まれて情報が外に出ないなかで、技そのもの、材料そのものを継承していく意味は確かにあったんだと思うんです。でも、今現在、そこはほぼ大きな意味を持たなくなっている。もちろん、モノをつくるという意味では技は必要ですが、それは直接その教えを受けなくても、情報を入手すればかなりの割合で、自分でやれます。というより、ともかく自分でやるしかない世界ですので、そこを深めていくとき、単に継承される技のみではおそらく決定的な差が生まれません。ということは、その技を持って何をなすべきか、茶盌(ちゃわん)をつくるのであれば、茶盌をどういうものと捉えて、どういうものをよしとするのかが大事になってくると思うんです。

実はそういうものでさえも、写真などを見ればかなり共有できるんですけれども、でも、こういう言い方がいいかわからないですが、例えば新しく作陶をはじめられる人が、古い茶碗を見て写しはじめると、それに囚われ過ぎるように見えることもあります。茶盌とはなにか、何をよしとするのかを自分なりに解釈し、時代に応じて新しくしていこうとするとき、実は継承が大きな意味を持つと思います。もちろん、突拍子もなく新しいモノをつくるときには、逆にそういうものが邪魔になることもあると思いますが。

受け継ぎながら変化させ、そこに新しい時代のものを創出して行き、それをまた受け継ぎながら進んでいく。そういうことが我々の仕事です。アウトプットされるものは各代で違うので、それらに通底する何を継承すべきものとして、いかに継承して行くのか。継承が手段なのか目的なのか、そこさえも堂々巡りをするんですけど、そんななかで自分がたどり着いた1つの答えが、一見意味がなさそうな習慣こそ、変えずに残しておくというものでした。ロジカルに意味のありそうなことは、その意味が変わるのであればどんどん変えていけばいい。先ほどの話でいくと、窯を焚く手法として温度計や、煙を処理する仕組みなど、どんどんと取り入れて変化してもいい。一方で、祈るという一見意味の無さそうな行為は変えない。突然、拝まなくなったからといって、すぐに窯焚きが変わってしまうということもなく、いつもと同じように焚けるんです。でも、それを5年、10年と続けていったときに、朝日焼に大きな質的な変化をもたらしてしまうだろうなと思います。

ショップを飾る、朝日焼の変遷を表現した陶片
受け継ぎながら変化させ、新しい時代のものを創出する

宇治の風土のなかで

-しかもこの場所にこだわられて、この場所で代々作陶をやられてきたのですから、歴代の方たちが見て感じてきた風景とか、風、空気感など、いろいろなものを丸ごと引き継いでいらっしゃるんでしょうね。

松林  はい、そういうことって、実はとても大きいと思います。よく父が言っていたことがあります。朝日焼には、京都の華やかさみたいなものは無い。でも京都よりも柔らかく、もう少し優しい。上品な素朴さを兼ね備えている。そういうものが朝日焼なんだ。これは京都と宇治を比べたときに、あらゆるものに当てはまりそうなことで、京都よりちょっと丸いんですよね。

一方で、地方の焼き物にあるような力強さもない。九州に1年住んだことがあるんですけど、九州の人たちからすると、わたしの言葉は「なんでそんなにはっきり言わないの?」ということになりますが、わたしからすると「なんでそんなに直球で言葉を投げられるんだろう?」ということになる(笑)。そういうところが宇治にはあります。

まさにその象徴が、朝日焼なんだと思います。ちょうど目の前に平等院があって、平安時代にはお公家さんたちが別荘として使うプライベートな場所だったわけですので、心を緩やかに解いていく場所だったと思いますし、都の外でありつつ都にも近いという地理的なことも、この風土をつくっているのだと思います。どこの土地でもその土地の良さ、難しさがあると思いますが、そこで何世代にもわたってモノをつくっていますと、そこからは逃れられませんし、むしろそこが魅力、ということになるのではないでしょうか。自分が生きている時代の影響から逃れられないのと同じように、その土地の影響からも逃れられないのだと思います。

対岸から見た朝日山
工房とショップは、朝日山の麓、宇治川のほとりにある

わたしは今、宇治川の対岸に住んでいて、毎日工房に通ってくるんですけども、年々、なんというところで仕事をしているんだろう、と思いますよね(笑)。特にこのコロナの期間中は、工房も交代制にして一人になることも多く、朝、人にも会わずゆったりとここにきて、一人でモノをつくり、夕方日が沈む頃に帰るという生活で、ギスギスしたものがなく、本当に恵まれていると感じました。

工房にて
工房にて 

-そうしたことがみな、作品に反映されるんでしょうね。

松林  そうだと思います。ここ7、8年ずっと海外で作品の展示や話をしたりする機会をもってきているんですけど、それを始めた頃は、実はそれがちょっとコンプレックスに感じるところがありました。言ってみれば、朝日焼の柔らかさや上品さというものは、曖昧な領域に存在するものです。陶芸には、華やかさや迫力、技巧的に凝ったものだったり、ワイルドなものだったり、明確な特色がいろいろあると思うんですけど、朝日焼はこれが個性だというような、何かしら尖ったわかりやすいものがない。どちらかというと調和感だったりしますので、何が特色なんだと問われたとき、どうもそれをうまく伝えられない。

でも、色とか形といった表面的なわかりやすいものではなく、もっと奥底に自分たちのアイデンティティがあるということが自分なりに理解し、信じられるようになって、そうしたコンプレックスがなくなっていきましたね。今はSNSの時代だということもあって、どうしても特色を打ち出し目立っていないと伝えられないという部分があります。SNSだと自分が何かを主張すると、そこに賛同する人たちが集まってきて意見がどんどん先鋭化していく、白なら白、黒なら黒とどちらかに寄ってしまう傾向が強くなると思いますが、でも、あえて白と黒との間にグレーがあるし、そのグレーもさまざまなんですよ、と言えるようなものがあってもいいのではないかと思います。そして、実はみんな、こういうものの方が心地いいよね、と感じられる器だったらいいんじゃないかな。それが、今、わたしがやっていることです。

―今日、宇治川のほとりというこの環境のなかで作品を拝見して、この地でつくられているからこそ、この作風なのだということが、とても胸に落ちました。

松林  そうですね。やはり、ここで体験してもらうと朝日焼がよりわかりやすくなると思います。それが目的でこのショップをつくったみたいなところもあります。この宇治川が流してきた土を掘り、それを捏ね、そういう結果がこれらの器であり、かつこの宇治の茶の文化の上に成り立っているのが朝日焼ですから、そこを体感してもらうことが一番朝日焼とはいかなる器なのかを感じてもらうことで、宇治川を眺めながらお茶を味わってもらえるようにしたんです。

お茶という文化も、自分たちがいきなりつくったものではなく、常にその時代その時代に応じて変化しながら今に伝わってきたものです。では、今、自分たちはどういう茶の文化を育みながら次の人たちに渡していけるんだろうかと考えます。何も変化を加えられないのであれば、意味がないのではないかとも思うんです。ですので、この場所できちんと文化を醸成して、伝えていきたい。そう思います。

宇治川のほとりにあるショップで
ショップ奥に設けられた開放的な茶室

インタビュー後記

工房からの帰り道、対岸にある平等院に立ち寄った。朝日焼を育んできた宇治の空気感を、そして、できることなら時の重なりを体感したかったからである。

訪れた平等院のミュージアムで出会ったのは、朝日焼一世の柴舟の香炉。400年の歴史は、確かに眼前にあった。歴代当主がそうであったように、十六世の日々の作陶もまた、彼らの足跡の先に足されていく。100年後、200年後の未来において、十六世の作品も、朝日焼の綺麗寂びにおける新たな表現として解釈されるのだろう。そう思えた邂逅であった。

綺麗寂びの新たな解釈と表現。宇治の風土とこの時代を揺籃として、十六世松林豊斎の茶陶は、朝日焼、そして茶陶の新たな地平を切り拓く。