奈良祐希 陶芸家・奈良祐希 インタビュー|境界を再定義し、新たな陶芸を切り開く変革者(後編)
奈良が現在、創作のテーマとして掲げるのは、「建築と陶芸の融解」である。
そのひとつの答えとして生み出された代表作《Bone Flower》は、
いったいどのようにして生まれたのか。
今回のインタビューでは、
これまで他のメディアにも語られてこなかった本作の誕生までの道のりを辿ることで、
奈良祐希という鬼才のアーティストに迫る。
写真:波多野功樹
PROFILE
自らのルーツから考える
――前回、多治見市陶磁器意匠研究所での「日本的なるもの」という課題が《Bone Flower》の誕生につながったというお話でしたが、この課題を受けて、一番初めに制作したのはどんな作品だったのですか。
奈良 《Bone Flower》とは全く違うものでした。少し建築のエッセンスが入った器を制作していました。陶芸ってハンドメイドだから、テクノロジーを使ったりとか、あんまりかけ離れたことをやったらだめだなって思ったから、当時PCは全く使っていなかった。その作品を1年生の終わりに出して、まあでも何か、この方向性に未来があるかなと感じていました。伝統的な陶芸技法であるタタラ(※4)やロクロと最先端のテクノロジーの融合です。
コンセプトもですが、実際に技法も試行錯誤が必要でした。僕の作品って、特殊な構造をしているから、まず、どんな風に焼けばいいのかわからなかった。当時、学校の先生に聞いても、質問する前に門前払いでした(笑)。今は独特な焼成方法を取り入れているんですけれど、あの作品って、普通に窯に入れて焼いたら、ブロッコリーみたいになって崩れてしまう。だから窯の温度帯とか、焼き方は、いちから自分の作品に合ったものを調べる必要があった。そして結論として、やっぱり僕の作品は構造上、磁器の素材だけではどうしても強度が持たないということが分かりました。
――新しい作品作りのために、すべてご自身で研究していったのですね。
奈良 今でも基本的には多治見とか、美濃地方の磁器の素材(※5)を使っているのですが、それが100パーセントだと、やっぱり磁器って、ものすごく弱いんですよ。焼いたら強いんだけど、焼く前って、このあらゆる土の中で一番弱くて、実際一番強いのは、陶土。中でもうちの大樋焼の土はとても強い。高温で焼成して、窯から真っ赤な状態のまま、つまみ出し、水につける。そんな急劇な温度変化にも耐えられるってことは、相当な土ということなんです。
それで考えたのは、うちの土をちょっと混ぜたら強くなるかもしれないなと。
そしてそれが結果的に、強度以外にもいい変化をもたらしました。大樋の土が入ったから、作品は純白じゃなくなって、若干の肌色っていうのかな、そういう自然な色合いに仕上がった。真っ白って、自然界には存在しないから、工業製品っぽくなると感じていたんです。それがすごく嫌だったんですが、人との距離感が近い素材になりました。
――現在の作品には、作品にご自身のルーツが入っているということですね。コンセプトの部分では、大樋焼に立ち返ることはなかったのでしょうか。
奈良 実際、《Bone Flower》には、大樋の土が入っているから、大樋焼といえるかもしれないけれど、やっぱり茶陶じゃないから、大樋焼と言えないかもしれない。そこにはあまりこだわりはありません。けれど、ずっと考えていることなのですが、やっぱり大樋焼って、長い歴史の中でやらせてもらっているじゃないですか。そうなると、ものを作る時に、脈々と受け継がれてきた歴史を考えたりする。あの代はああいうのだったから、次はこういうのかなって。だから、ものを単体で考えるのではなくて、「時間軸」の中で捉えていくっていうのは、家業の影響があると思います。
やはりそのものの歴史って重要だと思うんです。こと陶芸で言えば、その起源に手びねり(※6)の発明があり縄文土器が生まれ、ロクロの発明があり弥生土器が生まれた。その歴史の中で何万年かけて僕らの代になって、まだ陶芸をやっているわけでしょ?
それって、やっぱりその流れの中で、考えなきゃいけないって思っている。今、生きているっていうことは、先人たちのそういうものを学び、捉え直して、自分がどう考えるのかっていう、その姿勢や態度はあるべきだろうなと思います。
――《Bone Flower》が、縄文土器や弥生土器の形態からインスピレーションを得ていらっしゃると聞いてとてもおもしろいなと思いました。
奈良 陶芸の原初的な風景であり、起源ですし、そういったものに影響を受けた形っていうのは、やはり日本人にしかできない、特有のオリジナリティや美的な感覚が表れてくるのではと考えました。「日本的な現代における土器」とはなにか?というのは常に頭にあって、そうなってくると、やはり古代の須恵器、土師器、そして六古窯(※7)が現れる前の、もっと根本的なものって、縄文土器、弥生土器の形なんです。
日本美術のなかにも、「写し」の文化ってあるんですよね。名品があれば、それを写し、学び、みずからの表現に取り込んでいく。大きなところでいうと、そういった部分も「日本的なるもの」だと感じています。
受け継がれてきた精神
――現在、大樋焼という枠にとらわれずに作陶していらっしゃる奈良さんですが、同じ陶芸家であるおじい様やお父様の作品、活動はどんなふうにご覧になっていますか?
奈良 僕の家って、曽祖父の頃までは、茶道具しか作っていなかったんです。けれど、祖父の代から、茶陶以外にもオブジェみたいなものを作り始めて、それが最終的に評価を受けて、文化勲章まで頂いたりしているのですけれど、そういう背中を見ていた父がいて、さらにもう少し広げようという感覚で、現代アートの分野にも入っている。
――おそらく、おじい様の世代って、茶陶以外のことをやるのがそもそも難しかったんじゃないでしょうか。その広がりがお父様の活動に繋がっていって、さらに奈良さんの世代まで行っているんですね。
奈良 たしかに、受け継ぎ発展していっているというのはあると思います。もし僕が曽祖父の息子だったら、今みたいな作品を作れていなかっただろな。めちゃくちゃ厳格で、真面目な人だったようです。それに反抗して、茶陶よりももっと自由な陶芸の創作活動をしたいと思った祖父、それがもっと広げられるだろうと思った父、それよりもっと家業から離れてやれるだろ、っていう僕。じゃあ、僕の子供はどうなるんだ?(笑)。まだ僕自身、答えは出ていませんけれどね。
――では《Bone Flower》はまだまだこれから展開していくのですね。
奈良 作品の形は変わっていきます。やっぱり作家っていうのは変わっていかなきゃいけない。僕が今取り組んでいるのが、陶芸と建築とっていうのがひとつの合わさった状態になったものですよね。それって他にもいろいろな思想や形態に展開できると思っていて、だから《Bone Flower》は、きっかけというか、ひとつの種のような感覚です。
きっと、境界というか、中間のところに新しい可能性があると思っている。今の時代を見ていても、曖昧になった境界に、新しい何かが生まれてきている。それは、芸術だったり、テクノロジーだったり、新しい仕事の価値観だったり、何かと何かの組み合わせだったり、掛け算なんですよ。
―-現在取り組まれていらっしゃるのが「建築と陶芸の融解」というテーマですね。多治見時代に目指されていた「融合」とは、どのように違うのでしょうか?
奈良 あの当時は、陶芸にテクノロジーを使って良いものなのか、建築的な視点から考えて良いものなのか半信半疑からのスタートでした。陶芸を学び始めたばかりと言うのもあり、表層的な意味での「融合」でしたが、あれから時が経ち、家業を知り学び、自分の土に対しても理解を深めることで、現在は陶芸の本質から捉えようとしています。表層ではなく深層です。「土らしさ」や土のもつ「生物性」を、作品に内包しようとしています。
具体的には、タタラを制作する際にどうしても出来てしまう僕の手の痕跡や圧力を、磁土は形状記憶が激しいので、しっかりと土が覚えています。ゆえに、焼成後、土が揺らぎ、先端が僅かに曲がったりして、土が本能的に動くのですが、今まではそれを全て消去しようとトライしてきました。今はそれを全て受け入れ、建築と陶芸が深い意味で織り重なり、本質的な交わりをしてきたと言う意味で「融解」と言う言葉を使い始めています。
――ひとつのテーマを深く掘り下げることが、新たな表現へと繋がっていくのですね。
奈良 そこでやっぱり創意工夫という言葉に立ち返るんです。自分にしかできないことは何か。それを考え続けた先に、《Bone Flower》の次なる形が見えるのだと思います。
――新作を拝見できる日が待ち遠しいです。今後も、ますますのご活躍を期待しております。本日はありがとうございました。
WORDS
※4 タタラ
タタラとは、薄い粘土板を作成し、これをもとに作品を成形していく陶芸技法のひとつ。粘土板の作り方は、粘土の塊から糸で切り出す方法や、伸し棒を使って一枚一枚延ばして形成する方法などがある。
※5 磁器の素材
陶磁器は、陶石を砕いた石粉を主とする磁器と、陶土を主とした陶器など、素材や焼成温度などによって分類されたものの総称。そのため、磁器は「石物(いしもの)」、陶土は「土物(つちもの)」と呼ばれることがある。一般に、磁器は純白である。
※6 手びねり
陶芸において、作品を形成するための技法。土を回転させながら形成するロクロと異なり、すべて手作業で形成していくため、造形の自由度が高い。
※7 六古窯
「日本六古窯」のこと。中世の頃より現代まで続く陶磁器窯の越前・瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前の六つを指す。古陶磁研究家の小山冨士夫によって命名された。