中臣一 言葉未満の世界のなかで |のびやかなフォルムと色彩の源泉(前編)
なぜなら、作品制作は常に新しいことの連続だから。
言葉にならないさまざまな試みの重なりが、時を経て言語化されたとき、
いわゆる「コンセプト」とよばれる言葉が現れる。
中臣作品の伸びやかさは、自らの言語で自らを縛らないところから来るのかもしれない。
そしてその自由さは、
竹の声を聞き、創作の過程で出現するすべてを、慈しみ楽しむことにある。
さまざまなアートピース、アートワークを世に繰り出し、
自然体でアートの最先端を走る中臣一。
その言葉のなかに、作品の魅力の源泉を探る
PROFILE
中臣一 (竹藝家・なかとみ はじめ)
竹藝家/バンブーアーティスト。1974年大阪府生まれ。早稲田大学商学部卒業。大学在学中に人間国宝の生野祥雲斎の作品に衝撃を受け、竹藝を志す。大学卒業後、大分県立竹工芸訓練センターで竹工芸の基礎を学ぶ。その後、竹藝家の本田聖流氏に師事。2005年に独立し、オブジェを中心に創作。ボストン美術館をはじめ、ニューヨーク、ロンドン、パリなど世界各地の美術館やギャラリーで作品を発表している。また、リッツカールトン東京、リッツカールトン京都、福岡空港VIPラウンジなどのアートワークも手がける。パブリックコレクションは、フィラデルフィア美術館、サンフランシスコ・アジア美術館など多数
消そうとしても滲み出てくる竹の素材感を表現する
―中臣さんの作品を最初に見せていただいたときの印象は、竹に見えないということでした。そして、周囲の空気感をもつくり出しているような作品の在り方、作品が作品だけに止まらないといったところがすごく面白いなあと思ったことでした。
まず、竹に見えない、ということをお聞きしたいのですが、これは特別意識されてのことなんでしょうか?
中臣 そうですね。おっしゃる通り、竹に見えないっていうのはよく言われることなんですね。意識的にそうしているというところもありまして。一般的に工芸というと、素材を生かして、ということで、竹の素材感を前面に押し出しますよね。でも自分の中では、それはある意味当たり前だと思ってまして、逆にその竹の素材感を活かさない、むしろ消す方向に行っているんです。
たとえば、「色」です。竹はカビやすいので、塗装が必要です。基本的に、塗装には漆を使うので、でき上がったものはほとんど黒か茶色になるんです。漆は高級感が非常に出せますし、伝統的に使われている素材ですので、それに代わるものがないほど重要な位置を占めるものですけれど、それによって非常に制約を受けているということでもあるんですね。その制約によって、どうも竹に古いイメージがついてしまい、何かこう、止まってしまっているところもあるなあ、ということを、以前から感じていたんです。それで、意識的に、グレーとか、赤、ブルーといった、新しい色を少し加えることで、何か劇的に、見る人の受け取り方が変わるような新しさ、面白いことを起こせるんじゃないかなと思って、10年ほど研究をしてきているんです。
ですが、その素材感を消す方向に行ってもなお、消せないものがあるんですよね。それが竹の素材のもっている本質なんだと思います。その消せない本質を表すという考えで制作しているところがあります。だから、逆にいうと分かりにくい作品なんですよね。まったく竹に見えないですからね。ただ、じっと見ていると、節があったり、繊維があったりと、じわじわと時間をかけて伝わるもの、滲み出てくる素材感というものがあるんですよね。それらは本質的な、消せない、竹の持っている素材感なんだと思います。
― 一方で、この形は竹だからできる、という部分もあるのではないかと想像します。中臣さんの作風はかなり幅が広いようにも感じるのですが、今の「竹の本質を引き出す」ということと関連があるのでしょうか。
中臣 そうですね。そうかもしれません。ですが、実は基本的にはあまり考えていないんです。後で振り返ってみると結果的に振り幅が広くなっている、というところがあるんですけど。日々のなかでいくつかテーマがありまして、そのテーマに基づき、基礎研究のような形で制作を進めていった結果、自然に今のような幅の広さが生まれた、という感じです。
毎日竹と向き合っていると、竹のもっている特性というのがわかってきます。竹は制約が非常に多い素材なんですね。繊維ですから、土と違って自由に造形ができません。その素材としての制約、編みの構造的な制約など、いろいろな制約がかかる素材なので、それを宿命として受け入れながら、形をつくるっていうことになりますね。
プロセスの途中で立ち止まり、その景色を楽しむ
―そこが逆に存在感をつくっているようにも感じました。作品には、8の字や楕円などのモチーフを繋げていくものがありますが、ああいった作品には完成イメージのようなものがあるんですか。
中臣 基本的には即興でつくっていますね。スケッチなどもないんです。だから、その時によってできてくるものが違います。そういうのが好きなんですよね。たとえばプラモデルや家を建てるように、初めから最終形が決まっていて計画通りにしていくのは、やはりつくっているとあまり面白くないんです。偶然性であったり失敗であったりとか、そういうものも取り込んで、結果的に唯一無二のいいものができるっていうのが、理想ですね。
たとえば、つくっている過程では、ラインが崩れてしまったり、うまくいかないといったことがあるんですよね。もちろん、失敗は避けようとしますし、ベストを尽くします。でも、何か新しいことをしようとすれば、失敗は必ず起きる。そこで、あー、失敗した、と捨ててしまうんではなくて、何とかしてそこを取り込んで、最終的にいいものにできないか、っていうのを、いつも考えていますね。
《笑口竹花入》も偶然が重なった作品なんです。花籠の中に入れる「おとし」にしようと思っていた太い竹があったんですね。これを水洗いしたところ、表面が非常にいい具合に枯れていまして、これはいいな、「おとし」ではなく作品になるなと思ったんです。それで、表面の繊維を部分的にそぎ落としはじめたんですね。その表面の繊維はすべて落とすつもりだったんですが、たまたま、下まで刃が降りていかない部分があったんです。途中で刃が止まってしまった。でも、眺めたらこれもまた面白いな、と思われて、そのままそこで止めて、上から水があふれるイメージで青の漆で着彩したんです。花を入れる口の部分も、本来は小槌でポンポンとたたいて落として、綺麗にくり抜くところなんですけど、たまたま落としていたら、ちょうど笑った口のような感じに残ったんですね。笑いがこぼれ落ちるようで、これはこれで面白いなと思ったんですね。この作品は、こういう偶然の重なりでできた作品なんです。
― 竹の声を聴きながらつくられた結果なんですね。
中臣 そうですね。そのときどきに、立ち止まって、面白いと感じたものが作品になった、というものですね。もちろん最初はある程度イメージをしてつくり始めます。ただプロセスのなかで、やっぱり面白いことがいろいろ出てきますので、そこでこう立ち止まって、作品化するというのが僕にはいいなと思えます。
すべてを取り込み、作品が生まれる
―面白いですね。作り手である人間側からするとそれは想定していなかったことかもしれませんけど、竹の方からすればそれはなるべくしてそうなったという、ある意味本質に則ったものとも言えそうですね。そうだとすれば、それは取り込むべきものなのかもしれないですね。
中臣 そうですね。あと、アシスタントが三人おりまして、もちろん性格も様々だし、学校出たての人もいます。全部自分一人でつくるのなら、ある程度コントロールできるかもしれないんですけど、アシスタントがいるということは、いろいろなことが必ず起きるんですよね。キャリアも性格も違いますから。失敗もありますが、可能になることもたくさんあります。最終的に仕上げるのはもちろん自分なんですけれども、人それぞれの特性を活かして、よりよいものがつくれることを常に考えながら仕事をしていますね。
―以前、《Frill》のシリーズについて、お嬢様がお生まれになって、周りに曲線が増えてきて、それが作品にも取り込まれていった、ということをおっしゃられていましたが、日常の生活とか今のアシスタントの方たちのお話とか、ご自分の周りの環境など、いろいろなものを内包して作品が生まれているということなんですね。
中臣 そうですね。最初の十何年間はずっと一人でやっていましたので、その頃はものすごく完璧主義で、全部コントロールしないと気が済まなかったんですけど、アシスタントがいて、結婚して子どもが生まれるとですね、まあ、思う通りにはなりませんよね(笑)。子どもって2歳でもいうこと聞かないんですよね。アシスタントも、頭ごなしにこれはダメだと言っても、大抵言うこと聞かないですよね、やっぱり人間には自我がありますから。だから、自分が変わるしかない、という感じで(笑)。そういうところで作風が変わってきているということがあるでしょうね。それも面白いことだと思います。
渦中の試行は言語化できない
―《8祝ぐ》という作品名にも表れていますが、作品には幸いを他者に分け与える、他者の幸いを祈る、というような意味が込められているのでしょうか?
中臣 そうですね。最近、特にここ8年ぐらいは、それを認識していますね。もともと伝統工芸のものづくり全般に、そういう部分がありますよね。幸せを呼び寄せる吉祥文などは特にそうですね。そういう意味合いはかなり文様や造形に込められているものだと思っています。だから、特に自分が新しいことをやっている、ということではないと思っています。ただ昔と同じカタチでそれを取り入れても、竹の場合はなかなか難しいところありますので、そうした伝統のいいところは取り入れながら、新しいものをやっていこう、という意識です。
―こういったコンセプト的なものは相当意識をしながらつくられるものなんですか?
中臣 いえ、ほとんど実際そうはしてないんですね。特に新しいシリーズをつくるときは、手探りでつくることになりますよね。本当に新しいものって、理屈だけでつくれないですから。ただ、何年か後に振り返ったときに、もしかしてあのときこういうことを感じてああいうものができたのかな、と思うことがあるんですね。後からわかることが多いんです。ですので、結果として後からコンセプトを詰めて考える、言語化する、ということになりますね。もちろんメディアに乗って、わかりやすい言葉でストレートに、言ってみれば声高に叫ぶのが効果的かもしれないんですが、真実はそうじゃないですよね。真実っていうのはそういうところには無いと思っています。本当に新しいものっていうのは、そこがまだ言語化されていませんので、言葉にできないんじゃないでしょうか。
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