前崎信也 × 石上賢 対談 前崎信也(京都女子大学准教授)× 石上賢(B-OWNDプロデューサー)対談「工芸のこれまで、今、そしてこれから」(中編)
現在、危機的な状況にある工芸。その付加価値を高めるにはどうしたらよいか。
今回はこの課題について、
工芸文化史の専門家として日本の芸術文化の分野で幅広くご活躍されている前崎信也氏と、
B-OWND・プロデューサーの石上賢が語り合います。
工芸の過去・現在・未来における、本質的な課題とはなんでしょうか。
なおこの対談は、前崎氏執筆の『アートがわかると世の中が見えてくる』(2021年)の内容をもとにしています。
PROFILE
前崎 信也
1976年、滋賀県生まれ。京都女子大学生活造形学科准教授。龍谷大学文学部卒業後、英国に留学。ロンドン大学アジア・アフリカ研究学院大学院修士課程修了・博士課程修了。PhD in History of Art(博士・美術史)。2008年から立命館大学で海外の美術館・博物館に所蔵される日本工芸のデジタル化に携わる。2015年から現職。専門は工芸文化史、文化情報学など。展覧会監修や、Google Arts and Culture の文化コンテンツ作成など多岐に渡る活動を行っている。著書・論文多数。
石上 賢
1992年、愛知県生まれ。B-OWNDプロデューサー。画家の父、画商の母の元に生まれる。国内芸術家の経済活動の困難さを目の当たりにし、10代からアート作品の販売、大学在学中よりアーティストのプロモーション活動を開始する。これまでに50を超える展覧会の企画に携わる。2019年、アート・工芸×ブロックチェーンのプラットフォーム「B-OWND」を立ち上げる。
そもそもアートって何?
石上 僕は工芸の付加価値を上げていくことを考えたとき、工芸をアート化することがひとつの方法だと考えているのですが、そもそもアートと工芸ってなんだろう、歴史的にどういう道筋をたどって今に至るんだろうということを、どうしても考えてしまうんですよね。
前崎 いや、それは一番考えたらアカンことですね(笑)。
石上 はははは。そうなんですか。ずっともやもやしていたんですけど。
前崎 そもそもアートっていうのは、「新しい技術」を意味する言葉なんですけれど、それが絵画の分野になっていくと「よりうまく描ける人」みたいになるんです。だからお金持ちは一番うまい人に自分や家族の肖像画を頼もうと考える。そうして選ばれた人々が「アーティスト」になっていった。
アート(Art)っていうのは人が関わってできた全てのものを指しますし、だから人工物はアーティフィシャル(Artificial)と、自然の反対の意味の言葉になるんです。
石上 というと、カルチャーと同じような意味合いということですか?
前崎 カルチャー(Culture)は、もともとは「耕す」という意味ですけど、日本人が「文化」という言葉を頻繁に使い始めたのは明治時代ですね。でもそれは、どちらかというと「文明開化」の略語なんです。「明日の生活は今日よりもよくなっている」っていう意味です。つまり、新しく変わり続けるという意味を、文化という言葉はもともと持っていることになる。だからアートもカルチャーも、人間が作り出した新しい何かを指すんですよ。
新しいことを面白いと思う人たちが始めたもの全て、たとえば利休の時代のお抹茶、明治時代の洋画、それに対抗して何とか変わろうとした日本画、最初の頃のゴルフやテニスもそうですし、現代ならiPS細胞とか、マンガとか、YouTuberとか、新しいことを追い求める人が新しく生み出したものですから。日本人に限ったことではなくて、世界中の人が新しくやっているものが最先端のアートになるということです。
石上 そう考えると、私たちが思っている日本の文化芸術のイメージとはずいぶんズレがあるように感じますね。
前崎 それは、どこかで誰かが発展を止めたからなんですよ。ではなぜ、その発展を止めなくてはいけなかったのか? といったら、この本にも書きましたけれど、私たちは中国人とは違う、ということを示すために文化を外交の手段として使ったんです。(※5)
江戸時代の日本人は中国に心の底から憧れていましたから、日本文化の多くは中国文化のコピーでした。でも「なんちゃってチャイナ」では中国と同じように欧米諸国からの侵略の対象になるかもしれない。だから「オリジナルジャパン」であろうとした。そのために、日本にしか見えない文化を抽出し、虚勢をはった。
昭和45年(1970年)の大阪万博くらいまでは、文化大国として、なんとか持つんですよ。お茶をしている人もまだたくさんいるし。「私たちは特別なものを持っていて、やっぱり他とは違う」と。
実際、私たちが今やっていることの全ては、先ほど説明した意味でのアートでありカルチャーだから、毎日すこしずつ変わっていくんです。でも、アートや文化を、中国とは違う日本の伝統的慣習にくっつけて変わることを許さないで、自分たちの生活は日々よりよきものに変え続けたから、やがて全く別のものになってしまいました。そのギャップをどうしていいかわからない状態になっているのが今の日本じゃないですか。
なぜ伝統工芸は「産地・素材・技法」を説明するのか?
石上 なるほど、工芸とアートの違いってなんだろうって、僕がずっと悩んでいたことって、特段意味がなかったんだということが分かりました(笑)。
じゃあそれはもういいとして、もうひとつ先生に伺いたいことがあります。僕たちは工芸の付加価値を上げていくために「なぜそれを作ったのか」というコンセプトを伝えることを重要視しています。でも、これまで多くの工芸に従事する方たちが、素材や技法、つまり「これはこの産地で採れた土で、何百年続いてきた技法で作っている」と伝えることによって、それを価値の根拠としてこられたのだと思いますが、その理由よくわからなくって。
前崎 そうそう、「何言うてんの?どこで採れてもただの土やん」ってなりますよね。でもそれは、明治の半ばから大正時代くらいには、珍しい技術と素材に価値があったからなんです。明治18年(1885年)に「専売特許条例」ができて、国が技術を認めるということをした。フランスから学んで知的財産というものを保存するようになったんですね。それまで「秘伝」というものがなぜあったかというと、コピー出来たら自分のものにできる時代だったからです。だから親族以外教えなかった。
専売特許のような知的財産を評価するという考え方が広まると、みんなの知識が表に出てくる。「国から認めてもらったからこれは俺のものだ」っていうことで、その技術の保持者として名前が記録に残るんです。だから、明治の20年代~30年代に、江戸時代に蓄えられた日本の「秘伝」がワーッと世の中に出てきてパブリックな知識になっていく。そうすると「ここにしかない技術」や「ここにしかない素材」を主張することに価値がでてくる。
さらにその次の展開として、公開されていないものは新しい。技術も素材も、見つけた人は自分が最初に見つけたと主張する。それが多くの「最先端」を意味していたんです。
石上 当時の現代アートということですね。
前崎 そう。それを使い果たすのが、大正時代くらいに、日本国中の鉱物や植物・動物が調査され尽くして、その知識がシェアされて、国内で一番優れたものがどれかわかってくる。でもその頃には、海外にはもっといいものがあるということを知り始める。 同じようなことは世界でも起こっているんです。日本が、世界の著作権法ともいえるベルヌ条約に加盟するのが明治32年(1899年)、そして日本の知的財産が世界的にも保護されるようになっていくんですけれど、そこでジャポニスム(※6)が終わる。逆に言うと、日本の知的財産は1899年まではコピーしたい放題だった。だから、ゴッホは浮世絵を描くし、モネは自分の妻に能衣装を着せてモデルにする。でも、日本のものが使えなくなったら、次にヨーロッパの人はアフリカの美術をコピーするんです。その時はアフリカの美術っていうのは全く保護されてなかったからです。
石上 世界の動きを見ると、そういった流れもわかりやすいですね。これってやっぱりアートと文化の話で、人間が自分たちの生活を変えるために、毎日どう考えているかっていうことに沿って、美術というのはやっぱりどんどん動いていくんだなと。
前崎 そういった流れの中で、日本が一番やってはいけなかったのは、文化というものを主張するために常に冷凍庫に入れて保存しようとすることです。
どういうことがというと、富士山を世界遺産に登録するということは、登録された時点の富士山を未来永劫維持し続けようということなんです。富士山に新しいものを建ててはいけないし、三保の松原の木を切ってはいけない。
日本は文化で「冷凍保存」をしつづけているんです。前にお話しした伝統的工芸品なら1974年に法律を作って、国が決めた伝統的工芸品に関わる人と技術とその製品を冷凍庫に入れたんです。そこから50年とか100年とか解凍しないで放置しておくと、それはもう、食べられないものになってしまいますよね。
だからこれからは、私たちが生きている世界を「新しいアートで満たす」ということが重要で、僕はB-OWNDさんがやられていることってすごく正しいと思います。新しい技術を取り入れて、最先端のことをやっている人を、今一番お金を持っている人に紹介するっていうのは大切なことですよ。
【書籍紹介】
今回の対談は、前崎氏が執筆された『アートがわかると世の中が見えてくる』(IBCパブリッシング株式会社、2021年)の内容をもとにしています。ぜひご参照ください。
WORDS
※5
明治の日本は、欧米諸国からの植民地化を免れた数少ないアジアの国であった。そこで政府は、経済発展とともに、文化の独自性を示すことで国の存続を目指した。この流れの中で、1900年のパリ万博に向けてはじめて“日本美術史”が編纂された。詳細は、『アートがわかると世の中が見えてくる』の第2章「作られた日本美術史」を参照。
※6 ジャポニスム
開国以降、日本の美術工芸品などが多く海外に出回るようになり、また19世紀の半ば~後半に開催された万国博覧会なども契機として、欧米諸国で広く日本の工芸品や浮世絵などが流行した。
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