桝本佳子 「見るための器」|すべての人に向けられた、ユーモラスのかたち(前編)

陶芸家
【インタビュー】
桝本佳子は、見るものをあっと驚かせる「器」を制作する、今注目の若手陶芸家。
シャコ、ヒマワリ、スペースシャトルなど、様々なモチーフを「器」と一体化させる自由な発想が特徴だ。
陶芸という枠を軽々と飛び越えるような思い切りの良さと、趣向を凝らしたユーモアに満ちた作品はどのようにして作り出されるのか。
今回は、幼少期の体験にはじまり、素材と表現、現在制作中の作品などを通して、その制作意図に迫る。
取材・文:大熊智子
作品写真:木村雄司
構成・編集:B-OWND

PROFILE

桝本佳子

1982年、兵庫生まれ。京都市立芸術大学 大学院修士課程 陶磁器専攻修了。2010年、米フィラデルフィア芸術大学 ゲストアーティスト。2013年、ヴィクトリア&アルバート博物館(ロンドン) レジデンスプログラムアーティスト個展、グループ展は、国内外問わず多数開催。受賞歴は、2013、兵庫芸術奨励賞2018、秀明文化基金賞など多数。パブリックコレクションとして、ヴィクトリア&アルバート博物館(ロンドン)、豊田市美術館、滋賀県立陶芸の森などに作品が所蔵されている。

使わない「器」があることを知った茶道教室での体験

キャプション《椎茸/弦付》
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- 「茶道」をはじめたことをきっかけに、陶芸に興味を持たれたそうですね

桝本 小学校3年生のときから「茶道」を習い始めたのですが、そのころから「焼き物」のお道具が好きで、自然と陶芸に興味を持つようになりました。なかでも、炭にくべる「香」を入れる蓋つきの器である「香合」のことがずっと気になっていましたね。ふだんのお稽古では、拝見の際に眺めるくらいで、ほとんど触ることもなく、ずっと床の間に置かれているだけだったんです。しかもお稽古先は電気の炉でしたから、実際に使用されることはなかった。でも「お道具」としてそこにあるんですよ。使うらしいけど、使ったことない、みたいな。

「茶道」では、本来、お道具として作られていないものを道具に使う「見立て」をするんです。たとえば、夏なら水差しの蓋を葉っぱにするなど、お茶って高尚な敷居が高いものだと思われがちですが、外から見るよりもずっと自由というか「遊び」があるんですよね。肩肘はらずに楽しむことができるんです。

茶道の先生が、お道具を誰が作ったとか、誰が持っていたとか、いわゆる権威的なものでなく、自分が「かわいい」とか「好き」だとか、そういう感覚を大切にする「道具立て」をされていたのも、現在の私の考え方や表現に影響しているようにも思います。

《青唐/水滴》
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-「見て楽しむ器」を作られる桝本さんの源泉が「茶道」だということがわかりました。しかしながら、あえて壺や皿、鉢などの「器」を作るのはなぜでしょうか。

桝本 作品を生み出す者として、できれば老若男女を問わず、多くの人に見てほしい、受け入れてほしいという思いがあります。けれど現代の作品って、難しそうだから見ることすら避ける、という方もいらっしゃると思うんですよね。私が目指しているのは、陶芸などのアートに興味を持っていないおばちゃんにも「こんなのわからんわ」と言われない作品を作ること。そう考えると、「壺」であったり「皿」であったりのかたちをしていれば、目の前のものが、取り合えず「器」であることは分かる。そうなると、まず「見る」という第一段階はクリアできるんじゃないかと考えています。

なにか「とっかかり」が必要だと思うんです。でもそれが、器のかたちをしているだけで何となくわかるし、親しみも湧く。少しでもわかる部分があるからこそ、そこをきっかけに広がっていくんです。そして、作品の意図するところはシンプルで、いわゆるアートに興味がない・遠いところにいる人たちに「何これ、面白いわ」と言ってもらうことです。やっぱり「面白い」「ウケる」のが1番。だから、「ユーモア」のある作品を作り続けてきました。

美しさ、技巧の高さよりも、陶芸の味わいを引き出していく

《ヒマワリ/黄瀬戸瓶》(部分)
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ユーモラスな作品を制作されるうえで意識されているのはどんなことでしょうか?

桝本 以前、陶芸美術館で展示をした際に、抹茶茶碗を作るワークショップをしたことがありました。あらかじめ用意した茶碗を元に、何かをくっつけたり壊したりして、自分なりの茶碗を作ってもらい、後日、焼きあがった茶碗でお茶を飲んでもらったんです。美術館の友の会の会員さん向けのイベントなので、参加者のほとんどが「焼き物」に親しんでいる人たちだったんですが、ワークショップの前に、まず、私の作品を見てもらうところから始めました。作品を紹介しながら、「用途のない器」を作るという考えを伝えた上で、自由に作ってもらったんですが、私の想像以上に、思い切って作っている姿が印象的でした。最終的に出来上がった作品は、とても飲みにくかったり、ストローを使わないと飲めなかったり(笑)、本来の用途を思い切り無視したものが完成したんです。

やっぱり何かを作るときって、どうしても「きれいに作ろう」と思ってしまいますよね。美しく作ることをゴールにしてしまう。そもそも日本の美術教育自体がそうですし。でも、だからこそ「がーん!」とやっちゃってほしい。既にある美しいものを壊してしまう、きれいに作り上げること以外の選択肢というか、そういう目線や発想があるということ、もっと自由に楽しんで作っていいんだということに気づくことが大事だと思うんです。「器」だからといって、使い道がなくたっていいんです。

リモート取材に応じる桝本氏

-何か伝えたい思いや感情を作品に込めることはありますか?

桝本 作品を通じて感情を表現するとか、作品に心情が現れているみたいなのは、気恥ずかしくて。じめじめしているのがイヤで、カラッといきたいんです。素材の中でも陶器ってしっとりしていると思うのですが、壺とか鉢とか、決まったような見知ったカタチになると、その湿っぽさがなくなるんですよね。そこがいい。でも、あまりきっちり作り込み過ぎると、ちょっとカリッとし過ぎるというか、明るすぎるというか、湿度が足りなくなってしまう。そのあたりのバランスは気にしていて、むしろ作り込み過ぎないようにしているんです。

実際、細かなところを作り込んでいくのは楽しいので、つい一生懸命やってしまうんだけど、そうすると「こんなにがんばりました、大変でした」みたいなのが、全面に出てしまう。見る人側からしても、どうしても細かなところに目がいってしまって「わーすごい」みたいになってしまうと、本来のテーマがブレてしまう。そうなってしまわないように、どこか「ゆるさ」を残すことが、ユーモラスさにも繋がっていると思います。

親しみがありつつも、驚きに満ちた作品であること

《苺/手瓶》
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-桝本さんにとっての「器」「陶芸」はアートであるということでしょうか?

桝本 アートなのか、それとも工芸なのか?この問いにあえて答えるとするなら、両方の「隙間」なのかなと。どちらとも繋がっていて、ある人が見れば「アート」だと思うかもしれないし、またある人は「工芸」だと思うかもしれない。多くの人が持っている「器ってこういうものだよね」という固定概念を壊したいという思いはあります。その過程が結果としてアートになるみたいな。はじめからアートとして存在しているのではなく、あくまでも陶芸からスタートしているんです。だから、アートだから・陶芸だから「こう見ないといけない」というのは一切なくて、私の作品と触れ合うことで、そのような思い込みを少しでも打ち破る手立てになれればとも思っています。

あとはやっぱり、誰かが作っているようなものを見ても面白くないですよね。見たことがないって、それだけですごくワクワクすると思います。器や陶芸が持つ既存のイメージを壊しつつ、何となく知っているような親しみやすさと、こんなの見たことないという驚きに満ちたものを兼ね備えてたもの。そんな、今まで誰もやってきていないものを目指しています。このテーマを追い続け、いつかは他の作家が作ったものを評するときに「これは、桝本桂子作品に似ている」と言われるような作品づくりを続けていきたいですね。

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