横山玄太郎 陶芸家・横山玄太郎インタビュー|ユニークな「動き」を手に入れた、ポップなネオ陶芸 (前編)

陶芸家
アメリカ留学中に陶芸をはじめたという横山の作品には、
伝統的な日本の陶芸のイメージとは異なった、ユニークな個性が発揮されている。
つるりとした表面、有機的な曲線、淡い色使い、水玉模様やストライプなどの表現は、
ポップであると同時に、エロティックな要素もはらんでいる。
「誰も見たことのない」表現を追い求め、オリジナリティ溢れる作品を生み出す発想の源泉とは?
これまでの経歴をたどりながら、アーティスト活動のコンセプトに迫る。
文・取材写真:B-OWND
作品写真:木村雄司

PROFILE

横山玄太郎

1978年、千葉県生まれ。画商の父のもとに生まれ、幼いころから美術に親しむ。1993年、アメリカ パットニースクールに入学、在学中に陶芸に出会う。1996年、アメリカ ハートフォード大学、芸術科に入学。2002年、帰国。2004年、門前仲町にアトリエGENTCERAMICS“を構え 制作活動を始める。主な展示は、2005年、個展「Bastard」(ウイルデンスタイン東京)、2015年、個展「GENTCERAMICS EXHIBITION」( 銀座三越)、2019年、個展「SOFT TOUCH」 (Gallery册)など多数。

 アメリカで陶芸に出会い、学ぶ

横山玄太郎 《靴下》
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※作品販売ページは、2021年9月15日(水)17:00~よりオープン

―横山さんが陶芸を学ばれたのが、日本ではなくアメリカだったと聞いて妙に納得しました。作品に、いい意味で「日本的な陶芸」のイメージがなかったからです。具体的には、どういった経緯があったのでしょうか?

横山 留学先の高校の課外授業で、陶芸の体験学習のようなものを受けたのがきっかけですね。

その高校はユニークなカリキュラムを採用していて、あるときは牛の世話をしたり、あるときは朝からキッチンで朝食を作ったり、またあるときは学校内の清掃をしたり。学校へ行く=学校の中の仕事もするみたいな教育システムで、普通の授業も勿論あるんだけれど、学校を運営するのに必要な仕事を学生たちみんなでやっていくという感じでした。 夜にも課外授業があったのですが、そこで陶芸体験が週1、2回くらいできたんです。

実は、はじめから、ロクロの感覚がうまく掴めました。すると褒められたりして。普段あんまり褒められないから(笑)、すごくうれしくて。そのまま作ることが楽しくなって、アメリカの美術大学に進学しました。

―大学では陶芸を専攻されたのですか?

横山 アート全般を学びましたが、結局陶芸が中心で、他のジャンルにぶれることはなかったですね。でも、いろんなものに興味はありました。コンセプチュアル・アートも面白いと思ったし、ガラスも吹いたりして。

一度、パフォーマンスもしました。作ったものを、ただすべてなぎ倒していくという(笑)。これを持って、思い切りウォーッ!!!って。

―おお~。これで陶芸作品を破壊していったってことですよね。

 横山 そうそう。コンセプトがないというコンセプチュアル・アートみたいな感じで(笑)。見た人は、みんなポケ~っとしてましたけどね。

でも結局、陶芸から離れなかったのは、純粋に得意だったってところはあるかもしれないですね。やっぱ素材って、言葉みたいなもので。例えば、英語を話せたりすれば英語圏の国に行きたくなっちゃうじゃないですか。スパニッシュ喋れたらスペインとかメキシコに興味があったりするみたいで。僕は陶芸という言語が上手く使えたから。

―その大学は、どのような教育方針だったのでしょうか?

横山 とにかく「人と違うものを作れ」っていうのが根本的な教え方なんですよ。どれだけロクロの精度が高いかとかが評価につながらない。もちろん、とてつもなく綺麗にできたらそれはすごいって褒められるんですけど、まあ普通程度にできるんだったら、「で?」みたいな感じなんですよね(笑)。

クリティーク(Critique)と言って、授業の生徒がみんな集まって、自分の作品とかで色々話したりするんだけど、そのときに、見たことあるようなこととか、誰でもできそうなこととかは結構叩かれる。やっぱり誰もやったことないことをやったり、作ったりする点に評価があって。だから今でも、誰かが作ったことあるような作品じゃなくて、自分だけが作れる作品はなんだろうと、そのことばっかり考えてますね。

―なるほど、あくまで発想力が勝負なんですね。

横山 そうそう。アメリカだと、「はい、ロクロだいたいわかった?じゃあなんか作ってみて。」みたいな。そんな感じですよ。

でも、それがよかったんだと思います。だから僕は、芸術っていう方向に自然と視野が向いたんだろうなと。僕もあるときまでは、いわゆる用途のあるものばっかり作ってたんですけど、そのうちそれじゃ自分が満たされないなと感じるようになっていきました。

約10年アメリカに滞在したのち、日本へ帰国

横山玄太郎 《銀の玉ギュ〜》
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※作品販売ページは、2021年9月15日(水)17:00~よりオープン

―自然とアーティストの道に進まれたのですね。結局アメリカにはどのくらいいらっしゃったのでしょうか?

横山 10年くらいです。アメリカで1年間だけ就職して、そこではいろいろな陶器、コップとかを作ったりする、バーモント州の田舎の、木造の小さい工場。

冬はスノーボードのインストラクターして働いてたりもしました。それも面白かったですよ。大学出て初めて社会人になって、バーなんて行きたい放題だし、車なんて初めての免許取って運転して、事故りましたけどね(笑)。

でもそのうちに、もうアメリカに9年もいるし、日本でもちょっと陶芸やってみたいなという気持ちが出てきた。やりたいことは変わらなかったんですけど、ちょっと場所を変えてみたいな、違うものを見て、違う空気を吸って、違うものを作ってみたいなと思って、とりあえずじゃあちょっと日本に帰ろう、と決めました。

―約10年の滞在でしたから、帰国後、アメリカでの活動と比べて、大変だなと感じることなどはありませんでしたか?

横山 そこはね、プロとしてアメリカで陶芸をやっていなかったから、要するに学生としての活動だったから、実際の厳しさってものを全然知らなかったですね。帰国後は、ほぼほぼバイトですよ、初めの方なんか。週5でバイトしながらこの工房で制作をしていた。それが思ったより大変だって、正直思いましたね。

―帰国後、日本の陶芸を学ばれたりはしたのでしょうか?

横山 アメリカから帰ってきてすぐ、日本の陶芸についても学ぼうと思って、愛知、岐阜、滋賀にいらっしゃる陶芸家の方、7人か8人くらいに直接連絡をして。僕よりはるかに年上の、当時50歳前後くらいの方にお話聞いていただきました。自分のポートフォリオを見せたら、もうここまでできてるんなら自分でやればいいよ、みたいなことをみなさん声揃えて言ってくれました。

もちろん、数か月くらいは、ひとつの場所で修行させてもらったり、アメリカの陶芸にはなかった、「菊練り」という技法を覚えたり、なんてこともありましたけどね。

そこで同世代のアーティストとも知り合って、交流もしながら、これまで地道に制作を続けてきました。

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