今村能章 アートと工芸の狭間で、まだ見ぬ、未知なるものを追い求めて(後編)

陶芸家
沖縄の地で作陶を続ける今村能章は、重力を利用した技法や神秘的な表現が特徴的なアーティスト。
その独自の感性は、沖縄という自然豊かな地に感化された視点や、未知なるものを追い求める好奇心に端を発する。
今回のインタビューでは、今村作品の源泉をたどりながら、自らが目指す陶芸家としての方向性について話を聞いた。
取材・文 大熊智子
構成・編集 B-OWND
写真 大城亘(camenokostudio)

PROFILE

今村能章

1984年、兵庫県生まれ。沖縄県立芸術大学大学院修了。2013年、自らのアトリエを立ち上げ作家活動を始める。

 

アートと工芸の狭間に生まれる「新しいジャンル」を目指して

- 作品について具体的なお話しをお伺いしたいのですが、今村さんの代表作の1つである、ボウルの部分に顔が施されたワイングラス《人の間》がありますが、あの作品はどのような発想から生まれたのでしょう?

今村 顔のワイングラスは、まず、ステム(脚)の部分は、自分が作品を作る上で1番美しいと思っている、重力と熱の作用によって自然に作られるラインを取り入れています。ボウルの顔を見て、モデルがいるのですか?と聞かれることもありますね。実際には、身近な人や政治家などをモデルにしています。人の顔をモチーフとした作品を作り始めた当初は、ちょうど3.11直後だったこともあり、政治的な意図を含んだ作品だったんです。で、作っている最中に、お世話になっていた飲食店のオーナーさんに「俺の顔も入れてよ」って言われて。誰もが知っている政治家に混じって、その人の顔が入っています。

《釉脚盃 人の間》 
写真提供:今村能章

- そのように政治的な風刺のようなものを表した作品は、現代アートではよく見かけますが、陶芸作品としてはあまり見たことがないように思います。今村さんは、ご自身の創作活動を「アート」と「工芸」、どちらと捉えているんでしょうか?

今村 どちらでもあって、どちらでもない。一言で答えるならば、中間だと思っているんですけど。でも「アート」として評価してもらえるのであれば、それはとてもうれしいですね。また、同時に「工芸」として評価されるためにも、クオリティの高さも欠かすことはできません。やっぱり「工芸」としてきちんと評価してもらうためには、技術の高さは不可欠なんです。でも、僕の中に、技術だけでは「工芸」になってしまうという思いがあって。とことん、美しさや技術を追い求めることはもちろん、そこにしっかりとした発想があることが大切だと思います。技術も発想もきちんとあるという前提があってこそ、「アート」と「工芸」の間の何か新しいジャンルができるんじゃないか。今、目指しているところがあるとすると、そこかもしれません。

一般的に「アート」と「工芸」を比較すると、「工芸」の方が下に見られてしまう風潮があるかと思いますが、その理由はどうしてだと考えられますか?

今村 もし「工芸」の発祥や、「ロクロ」などの伝統的な技術が発達していたのが、中国や韓国、日本などのアジア諸国ではなく、ヨーロッパやアメリカ諸国だったとしたら、もしくはそれらの国々で作られた作品のクオリティが遥かに高かったとしたら、「アート」より「工芸」の評価の方が上だったかもしれませんね。きっと、今の立場も逆転していたんではないでしょうか。

でも、僕としては「アート」より「工芸」が劣っているとは思っていません。だって、優れた作品を作ろうとすると、やっぱりどうしても高い技術は必要になってくるわけで。いくら面白くても斬新であっても、発想だけで技術が伴っていないと、どうしても作品に限界を感じてしまうと思うんですよね。それを踏まえた上で、自分の作品を「アート」の世界で通用する、きちんと評価してもらえるところまで、持っていきたいという思いがあります。

縄文土器が放つ圧倒的な存在感

《Genesis 引き合う力離れる力》
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- ご自身ではそれほど意識されていらっしゃらないということですね。

今村 一方で、今、「工芸」は「アート」の立場から見ても、きちんと評価されつつあるとも感じています。たとえば、「縄文土器」って、「工芸」か「アート」どちらかに分類するなら、圧倒的に「工芸」のはずです。でも、「縄文土器」って「アート」が主体の美術館にも、たくさん展示されているんです。とはいえ、これを作った縄文人たちは「アート」のために作っていないと思うんですよ。生活のための道具なのか、それとも儀式のためのものなのか、本当のところはよくわかりませんが…。その人が持っている技術を駆使して作り上げたもの・表現したものが必ずしも何か「メッセージ性」があるわけじゃなくて、でも結果として、きちんと評価されているわけです。

僕自身、これまで陶芸の美術館をはじめ、さまざまな美術館で、たくさんの陶芸作品を目にしてきましたが、やっぱり「縄文土器」が圧倒的なんです。もう本当に、その場から動けなくなってしまったんですよ。美しいとか技術がすごいとかじゃなくて、「一体、これは何だ?」とそのものが持つ「謎」に引っかかってしまって、まるで金縛りにあったかのように、長い時間、動けなかった。この何ともいえない感覚を大事にしたいというか、自分の作品にも取り込みたいなと思っていて。作品を見た人に「これは何なんだ!?」って思わせたい気持ちはずっと自分の中にありますね。言葉で表すとするなら「違和感」でしょうか。

たとえば、顔のワイングラス《人の間》だったら、重力を無視してボウルの部分が浮いているように見える表現や、仏のような顔が並んでいるところなんかに、違和感を感じてほしい。これは一体なんなんだ?作ってるのはどんなやつなんだ?と。

- 少し話が変わりますが、今村さんの作品には時代に左右されない普遍的なものや、現代社会を見つめたときに出てくる風刺的なものを感じますが、今村さんご自身の中から湧き上がってくる感情などを作品にすることはありますか?

《ドアノブカップ 2個》
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今村 実は今、「自分が何かを1から作り出すとどんな形になるんだろうか?」ということを、すごく意識しているんです。これまで、飲食店で使うための器や、自分が大好きなコーヒーを美味しく飲むためのカップなどは作ってきたわけですが、これらはきちんと目的があって作られていて、完全に自分の中から出てくるというか、湧き上がってきたものを表現した作品ってほとんどないんです。次の段階として、そういうところを攻めていきたいという気持ちもありますね。

原動力は、未知なるものへの好奇心

《釉脚盃 エデン》部分
今村の盃は、ステム(脚)部分に、重力を利用した技法を用いている。
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- 自分の内側から出てくるイメージって言葉で表すとするとどんな感じなんでしょう?もしくは、今、今村さんが関心のあるものとは?

今村 結局、そこを突き詰めていくと辿り着くのは、「未知なるもの」ですね。得体の知れないものというか、未確認生物とか超常現象とかにもずっと興味があって。小さな頃から恐竜が大好きで、小学校に上がる前から、親に図鑑をねだったり、恐竜博物館に連れていってもらったりしていました。小学生の頃には、ネス湖のネッシーとかカッパとか雪男とか、未確認生物に憧れていました。自由研究で「ツチノコ」について調べたこともあります。僕は兵庫県出身ですが、兵庫って日本一「ツチノコ」の目撃情報が多いんです。家の近所で「ツチノコ」を見たという人が現れたときには、僕も夢中になって探したことを覚えています。実は未だに、生きているうちに「未確認生物」に出会いたいと思っているくらいです。

- 今村さんが「未確認生物」に強く惹かれる理由とは? またそれは、作品づくりにどのように影響しているのでしょうか?

今村 「誰も見たことがないもの」に惹かれるんです。だからこそ、窯を開ける瞬間は「どんなものが出てくるんだろう」と、今でも毎回ドキドキしてしまいます。単純にワクワクするというか、気持ちを掻き立てられるから。

たとえば、宇宙人ってみんな見たことないですよね。だから1000人の人がいたら1000通りの宇宙人がいると思うんです。じゃあ、コーヒーカップだったらどうでしょう。同じように1000人の人に聞いても、きっと20~30くらいのパターンに収まってしまうと思うんですよ。思考の広さや幅って、これまで見たことあるものよりも、見たことのないものの方が圧倒的に大きい。これは「陶芸」にも、当てはまるはずです。

コミュニケーションや新しいカルチャーを生み出していくような作品を

《釉脚盃 チドリ》
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- これからの作品づくりについて、展望などがあれば、お話しください。

今村 市販の粉や釉薬を使って作ると、ほとんどイメージ通りに表現できるけれど、それでは面白くない。だから、自分で粉を合わせて作ると、自分でもイメージできない、誰も見たことがないものを生み出せる可能性がある。だからこそ、自分なりの錬金術のようなものと「重力」という地球の普遍的な要素を組み合わせて、この地球上でないとできない作品を生み出していくのが、自分の挑戦であり、作品づくりであると考えています。

また、ワイングラスやコーヒーカップなど、使用目的がある器については、単なる道具というだけでなく、コミュニケーションのためのツールや新しいカルチャーを生むためのツールになるなど、使う人たちにとって「人生を充実させるためのツール」として、発展していけるものであればとうれしいですね。

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