今村能章 アートと工芸の狭間で、まだ見ぬ、未知なるものを追い求めて(前編)
その独自の感性は、沖縄という自然豊かな地に感化された視点や、未知なるものを追い求める好奇心に端を発する。
今回のインタビューでは、今村作品の源泉をたどりながら、自らが目指す陶芸家としての方向性について話を聞いた。
構成・編集 B-OWND
写真 大城亘(camenokostudio)
PROFILE
今村能章
1984年、兵庫県生まれ。沖縄県立芸術大学大学院修了。2013年、自らのアトリエを立ち上げ作家活動を始める。
陶芸とは、自分なりの錬金術をすること
- 陶芸との出会い、陶芸の道に進もうと思った「きっかけ」はなんですか?
今村 昔から「美術」というか「物づくり」が好きで、何か作っていると、時間を忘れて没頭するほどでした。自然と美術系の大学への進学を目指すようになりましたが、「平面」と「立体」では、自分には「立体」が向いていると思い、ガラス・陶芸・彫刻の3つの専攻に絞って受験しました。その中で、1番最初に合格発表があったのが、沖縄県立芸術大学で。ほかの2つを待つことなく、沖縄に行くことを決めたんです。だから、「陶芸」がやりたかったというより、「立体」を作るための手段として、陶芸をはじめました。
- 大学、そして大学院の8年間、学びを深めていく中で、陶芸を極めていこうと確信したのでしょうか?
今村 そうですね。きっかけの1つは、とある新進気鋭の若手陶芸家との出会いです。その方の元で作品づくりをしている友人から「とにかく、やばい」と聞いていて、京都まで作品を見に行ったんです。そしたら、とてつもなく大きなガラスの塊みたいなのがあって、圧倒されましたね。
僕の知っている範囲の話になりますが、自分の手から離れた位置で形作るガラスと違い、陶芸って基本は自分の「手の中」でできていくんです。ロクロだったり手びねりだったり、自分の手で形を作り、色をつけたり、灰をかけたりして焼く。それまでは、そういう作業が「陶芸」だと思っていたんですが、この陶芸家の作品と出会ってから「焼く」ことが「陶芸」なんだと実感しました。
皿やオブジェなど完成品を想像しながら、それを目指して作り上げていくというよりも、世界中からさまざまな材料を集めて、自分なりの調合をして、それに火を通すことによって、これまで見たこともないものが出てくる。つまり、僕にとって陶芸は錬金術のようなものなんです。窯を開ける瞬間、「どんなものが出てくるんだろう?」と、自分自身ワクワクするような、そんな作品を作りたいと思うようになりました。自分では予測できない窯の中での変化、熱で溶けた釉薬が重力の力で動いたものを作品にするスタイルに変わっていきましたね。
- 構想通りの形を作ろうとするのではなく、自然に委ねると?
今村 自分の目が届かない窯の中で、熱で溶け出し重力で動いてしまうことを、「自分の形が崩れてしまう」と、マイナスに捉える陶芸家も当然いるでしょう。でも、僕にとっては、それこそが面白いんです。窯の中で熱や重力が作用することで、崩れたり大きく変わったりすることを逆手にとって武器にしてしまう。そんな風にして作品を作ってもいいんだと、気づかせてくれたのも、前述の陶芸家の方ですね。若くして急逝されてしまい、結局ご本人にお会いすることは叶わなかったけれど、とても影響を受けていると思います。
沖縄にいるからこそ、見えてくるものがある
- 自然豊かな沖縄で作陶を続けることも、作品に影響しているんでしょうか?
今村 とても、大きいと思います。僕は、もともと兵庫県出身なのですが、兵庫にいた時には、「潮の満ち引き」なんて意識することさえなかったし、海の水位が1~2メートル変わるなんて見たこともなかったんですよ。でも、沖縄にいると、すぐ隣に海がある。たとえば、今日はこんなに潮が高いとか低いとか、すぐそばで肌で感じられるんです。しかも、マンションとか高いビルがないので、月や星もすごく近い。毎日のように沈む夕日も眺めるし。そういった、人の力ではどうすることもできない自然を感じながら過ごしていると、重力とか引力とか、そういう普遍的なものを意識するようになるんです。
たとえば、重力。地球上で当たり前に作用しているんですけど、それを改めて意識すると、それまで見えていなかったものが見えてくるというか、いろんなことが当たり前じゃなくなってくるんです。そういうのが、全て作品に影響を及ぼしているように思います。
それに沖縄は、暖かいし、住みやすい。陶芸とは直接関係ない部分においても、沖縄にいることは、自分の人生にとって有意義であり、間接的に影響していると感じています。僕は、作品を作り続けていく上で、家族とか友達とか、日常生活全般というか、陶芸以外の部分がきちんと充実していることもよい作品づくりに欠かせないことだと思っています。だからこそ、沖縄を選んでいる部分はありますね。
- きれいな夕日やそれが映った水面など、自然を具象的に表現することは、多くの作家が取り組んでいるように思います。しかしながら、その部分ではなく、根源的な作用に着目する・自然現象が起こる背景にある力を表現しようと思うのは、どうしてですか?
今村 僕は、クリスチャンの家庭で育ったこともあり、教会や聖書が身近なものとしてあったんです。そこで、この世の成り立ちとか、この世の最後はこんな風なんだよとか、そんな話を幼いころからずっと聞いてきた中で、次第にすごく疑問に思うようになって。中学生になり、縄文時代は今から1万3000年くらい前から始まっていると学ぶのですが、聖書の世界の「アダムとイブ」がいたのは6、7000年ほど前とされていて、何だか時差があるんですよ。そういうところに疑問を感じたり、意識するようになり、「真実」ってなんだろう?「時間の流れ」ってなんだろう?とか考えていくうちに、いつも変わらずそこにあるもの・普遍的なもの、すなわち「重力」に興味を持つようになったんです。
普遍的なものを突き詰めていくことで、子ども時代に疑問に思っていた、この世の成り立ちやこの世の真実に、少しでも近づけるんじゃないかとの思いを持ち続けているんだと思います。自分にとって作品を作るということは、疑問に対する答えや感じたことを可視化する、答えを見つけようとする行為なのかもしれません。
まだ誰も見たことがないものを生み出していく挑戦
- 今村さんにとっては、作品を作ることが真実を追求する行為なのですね。
今村 今って、ほとんどのモノや事柄について、Google検索するだけで情報が出てくる時代じゃないですか。でも、その情報が正しいかどうかって、本当はわからないと思うんです。だけど、窯から出てきた物体は自分が作り出したものであり、たとえそれがよくわからない・得体の知れないものであったとしても、目の前の窯から出てきたということは紛れもない「事実」なんですよ。千何百度という窯の温度の中で重力が作用し、こんな物体が出てきた「事実」は、手垢がついていないというか、全く汚れていない。
だからこそ、自分と作品との間に対話が生まれるんです。あくまでも自分で作り出した作品なんだけど、「なんで、こんな風になってるんだろう?」とか、「重力って、こんな風に作用するんだ!」とか。自分の中で思いを巡らせているうちに、「今、地球の自転が止まったらどうなる?」とか、「星と星がぶつかったらこんな感じかな」とか、勝手に想像が膨らんでいくんですよね。でも、そこで生まれた疑問や想像って、Google検索で調べて出てくる情報なんかより、よほどピュアで、ずっと「真実」に近いんじゃないでしょうか。
- それは、自然現象を自らの手で作り出すみたいなことでしょうか?
今村 そうですね。釉薬が熱で溶け出し、重力の作用で垂れ落ちる。垂れ落ちた釉薬がブクブクとあぶくのようになったり、溶岩みたいになったり。自然に委ねると言いつつ、窯の中を覗きながら、垂れた釉薬が下についた瞬間に火を止めたりしているんですけど。こういうのをじっと見ているだけで、当たり前すぎて見過ごしていることに気がついたり、気になっていたことの答えがふと見つかったりするんですよ。
ある時、「陶芸」って地球そのものというか、結局、地球がしていることと同じかもしれないと気づいたんです。プレートがぶつかって混ざり合って、マグマで溶かされて噴火して、それが何百万年も冷やされて宝石になって…そんな地球が何百万年もかけてやっていることに近いことを、24時間とか、圧倒的に短い時間でやってしまう。自分が生きている70・80年ほどの時間の中で、地球がやっていることを少しでも真似できる優越感みたいなものが、「陶芸」にはあるかもしれません。
市販品や既存の形に頼るのではなく、自分なりの錬金術を持つこと。そうすれば、まだ、誰も作っていない、もしかしたら、地球すら生み出していないものを作れるんじゃないか。自分の錬金術に地球の普遍的な要素を加えて、この地球上じゃないとできない、これまでに見たことのないものを生み出していくことが、自分にとっての挑戦の1つだと思っています。
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