ウィーン万国博覧会をめぐる、日本工芸の世界戦略

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今日、日本の工芸はクールジャパンに象徴される文化輸出戦略の一つの柱になっている。
しかしこれは今に始まったことではなかった。
明治期には国の威信をかけた文化発信の対象でもあり、
欧米のジャポニズムの流行にも支えられて多くの美術工芸品が海を渡っている。
そしてまた、こうした文化戦略は、日本に限ったことではなかった。
日本政府が公式に初参加した1873年のウィーン万国博覧会をめぐる
工芸の世界戦略を見てみたい。
文:ふるみれい

ニール号の沈没

1874(明治7)年3月20日、フランスの郵船会社の所有するニール号が、暴風雨により南伊豆の入間沖で座礁し沈没するという事故が起きました。

この船には、前年の1873(明治6)年に開催されたウィーン万国博覧会に出品した宝物や美術工芸品、工業品、そして今後の日本の工芸・工業の発展のためにと現地で買い集められた参考資料などが積まれていました。

これらの積荷は、オーストラリアのトリエスト港から出帆し、香港でニール号に積み替えられて、横浜をめざしていましたが、到着を目前にして、伊豆沖の海中に没することになったのです。

沈没地点は現在の南伊豆町入間、米良の両集落の間にある白根と呼ばれる暗礁。

90名の乗客乗員のうち救命ボートで入間にたどり着いたのは4名、救助されたのは 1名のみという、明治期の海難事故としても大きなものでした。

遭難者のなかには日本の工芸の将来を託された技術者もいました。

ニール号の積荷のなかには、山梨県御嶽神社の御神宝水晶玉、鎌倉鶴岡八幡宮所蔵の北条政子の遺品として知られていた手箱や源頼朝の太刀、正倉院宝物など、ウィーン万国博覧会に出品した数々の宝物、美術工芸品などが含まれていました。

個人や団体などから集めて出展した品物もあり、賠償など、事後処理に多くの問題を残します。ニール号の沈没は、失った出品物、技術者の重要性に加え、海上輸送時の保険や、積荷の引き揚げのための機械の発明など、社会に大きな影響を与えた一大事件でした。

ニール号に積まれていた出品物は192箱(または193箱)。

そのうち陶磁器や漆器等の68箱は、明治8年からの引き揚げ作業で回収され、一部は博覧会事務局、現在の東京国立博物館で収蔵されていますが、出品物の多くは未だ海の底に眠っています。

ちなみにウィーン万国博覧会に出品された名古屋城の金のしゃちほこは、香港(またはトリエスト港との説もあります)での積み替えの際に、大きさの関係でニール号には積むことができず、幸運にも沈没を免れたとのこと。

ニール号の沈没地点については、その後何度か調査が行われていますが、遺物の全面的な引き揚げには至っていません。

現在、ニール号の沈没地点は、静岡県の埋蔵文化財包蔵地として登録されています。

海岸に流れ着いた31人の遺体は入間、妻良の村人により収容され、南伊豆町入間の海蔵寺に手厚く葬られました。

現在、海蔵寺の墓地内にその招魂碑が建っています。

海蔵寺(南伊豆町入間)に建てられたニール号の招魂碑
写真:ふるみれい
臨済宗海蔵寺(南伊豆町入間)
写真:ふるみれい
海蔵寺下より入間の集落と入間沖を臨む
写真:ふるみれい

ウィーン万国博覧会と日本政府の海外戦略

1873(明治6)年に開催されたウィーン万国博覧会は、日本政府が初めて公式に参加した博覧会でした。

日本政府は1871(明治4)年に参加の要請を受けると、博覧会事務局を設けて出品物の収集に取りかかります。

1872(明治5)年1月、太政官布告によりウィーン万国博覧会参加を全国に布告し、各府県に対して、その地の物産調査を指示、調査書の作成とともに出品物の選定・収集を行うように通達します。

各府県から集まった出品物は、この年の3〜4月、文部省の前身である大学南校の物産会資料とともに、湯島聖堂で行われた博覧会で公開され、入場者数15万人を集めます。

20日間の予定だった会期も約1ヶ月延長されるほどの人気を博しました。

ウィーン万国博覧会への参加は、日本政府にとって、日本の優れた伝統技術を発信する機会であり、さらにはこの機会を通じて日本の産物や美術工芸品などの輸出を促進したいという意図のもとに行われたものでした。

博覧会事務局副総裁の佐野常民は、ウィーン万国博覧会への参加の目的として、日本の優れた物産、製品を通じて、日本の豊かな国土と優れた製品を生産する技術があることを海外に発信すること、これらの物産や製品への海外の注目を集めて輸出産業を充実させること、諸国の出品物を調査しニーズ等貿易に資する基礎資料を収集することなどを挙げています。

日本政府は、ウィーン万国博覧会への参加を、日本の工芸・工業の海外への進出の機会として捉え、その海外戦略のもとに位置づけていたことがわかります。

ウィーン万国博覧会に実際に出品されたものには、家具や生活雑器などの日常づかいのものから、浮世絵や染織品、漆器、人形などの工芸品、仏像、刀剣、甲冑、陶磁器などの美術工芸品に至るまで、さまざまなものがありました。

また、会場であるドナウ河畔のプラーター公園には神社や日本庭園が設けられ、連日高い人気を博したことが知られています。

30カ国から7万点以上が出品されましたが、中でも日本の優れた品々は人気が高く、ウィーンでのジャポニズムの流行を支えていきました。

ウィーン万国博覧会での日本の物品販売は好調で、会期終了後も屋外展示物の販売を始め、日本製品の貿易について引き合いが相次ぎます。

その後、明治期の日本の輸出貿易を担う商社が設立され、欧州での工芸品の販売で外貨獲得に貢献するなど、ウィーン万国博覧会への参加はその目的を果たしたといえます。

英国の寄贈品からみえてくるもう一つの海外戦略

さて、冒頭に紹介したニール号の沈没とともに海底に沈んだ宝物、工芸品や工業品の顛末ですが、思わぬ展開が待ち受けていました。

ニール号沈没の報に接し、イギリスのサウス・ケンジントン博物館(現ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館)の館長フィリップ・クンリフ=オーウェンが、ヨーロッパの陶磁器やガラス製品などの美術工芸品の寄贈を提案、それを実現させます。

ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館

1976(明治9)年、その使者として300点余の寄贈品とともに来日したのが、クリストファー・ドレッサーです。

ドレッサーはイギリスの陶磁器として知られているミントン社などでデザインを手がけていた工業デザイナーで、陶磁器のほか、ガラスや金属器、家具のデザインなど、幅広く活躍していた人物でした。

博物館に持参した資料の多くは、見本として各地に配布されるなどして、散逸してしまったものも多いようですが、その寄贈品の一部、58点が東京国立博物館に、5点が京都国立博物館に収蔵されています。

また、ドレッサーは寄贈品の展示方法を指南するとともに、約3ヶ月間日本各地を巡って帰国し、後に『Japan, its Architecture, Art, and Art Manufactures』という書籍を残しています。

オーウェン館長と親しかったドレッサーは、寄贈品選定に大きな影響力を持っていました。

寄贈品はその当時の最新美術工芸品で構成されており、日用品と目されるものも多くありました。

また、フランスやドイツの製品も含まれていましたが、その大半はイギリスの美術工芸品でした。

イギリス製品のうち、もっとも多くを占めたのが、ドレッサーが美術顧問を務めていた貿易会社のロンドス社で、寄贈品がイギリスの美術工芸品の輸出を振興する役割を持ったものであったことが指摘されています。

日本訪問の途上、ドレッサーは米国、フィラデルフィアに立ち寄り、そこで「Art Industries, Art Museums, and Art Schools」という講演を行っています。

オーウェンの意向を受つつ、そこで語られたのは、博物館のコレクション形成と展示は美術工芸に関わる製造業者たちの啓蒙、教育、つまり美術工芸産業に有益なものとなるべき、という理念でした。

その後、ペンシルバニア博物館(現フィラデルフィア美術館)ではサウス・ケンジントン博物館の展示を参考に材料別の分類展示を取り入れるなど、この時点においてはサウス・ケンジントン博物館の影響を受けたことがわかっています。

サウス・ケンジントン博物館は、それ以前からヨーロッパ各地の美術工芸産業に関する博物館に対し、大きな影響を与えてきました。

1860年代のオーストリア芸術産業博物館、ドイツ産業博物館を始め、多くの同様の博物館・美術館がサウス・ケンジントン博物館を手本にコレクションや展示などを行なっています。

同じように、日本への寄贈品も、ドレッサーの指導のもと、サウス・ケンジントン博物館のように展示されたことが伝えられています。ドレッサーが関わった日本への寄贈は3回。そのうち、サウス・ケンジントン博物館が関係したのは初回だけでしたが、この寄贈はコレクションの提供を通してサウス・ケンジントン博物館の理念を日本へ移植するとともに、ヨーロッパ、アメリカに次ぐ日本への影響力の拡張がめざされたものだと指摘されています。

明治の時代も、美術工芸品は国の対外政策のテーマともなる重要な位置づけとなるものでした。

そしてそれは日本に限られたことではなかった点も、美術工芸品がもつ大きな力を感じさせてくれます。

【参考文献】

岸田陽子 「サウス・ケンジントン博物館と日本 : クリストファー・ドレッサーの運んだ1876年の寄贈品選定基準について」『アート・リサーチ』12  p17-29  2012年

国立国会図書館「1873年ウィーン万博 明治政府初参加」(2022-2-2参照)

国立国会図書館「【コラム】ウィーン万博とジャポニスム」(1873年ウィーン万博 明治政府初参加)(2022-2-2参照)

国立国会図書館「【コラム】ウィーン万博への道程」(1873年ウィーン万博 明治政府初参加)(2022-2-2参照)

国立国会図書館「【コラム】佐野常民とウィーンの日本人」(1873年ウィーン万博 明治政府初参加)(2022-2-2参照)

東海大学海洋考古学&水中考古学プロジェクト ニール号沈没地点調査(2022-2-2参照)

東京国立博物館「ドレッサーの贈り物-明治にやってきた欧米の焼き物とガラス」(2022-2-2参照)

東京国立博物館「2. ウィーン万国博覧会 近代博物館発展の源流」(東博について/館の歴史)(2022-2-2参照)

佐藤秀彦 「クリストファー・ドレッサーの来日と英国の寄贈品」『郡山市立美術館研究紀要』2 p25-52 2001

角山幸洋 「仏国船ニール号の沈没」『關西大學經済論集』48(2) p185-220 1998

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